2013年08月17日

読書についてのわずかな考察

お盆の読書はほとんどファンタジー小説を読んでました。ページ数だけなら約1500ページくらいでしょうか。実はポパーの「推測と反駁」という700ページくらいの本を読むつもりだったのですが、100ページくらいしか進んでません..^^;;

これは、主な原因の一つとして子供の相手をしながらだとファンタジー小説は読めるけど、哲学書は読めないということです。


哲学書はしっかりと一つづつ考えながら読まないといけない(場合によっては、紙と鉛筆で図示しないと読めない)のに対して、小説はそのままサクサク読めるからです。そういえば実家にはボルヘスの小説と長谷川宏の本が置いてあるんですが、子供がいる時は小説しか読めません。


現在、スタノビッチとウェストのシステム1・2の話を読んでいてその影響を受けているためか、哲学書は完全にシステム2的な(つまり分析的、理論的に)読書ですが、小説はシステム1的な(情緒的、直感的な)読書だからでしょうか?もしくは、子供の相手をある程度しながらだと、そこに認知資源を取られてしまうため、哲学書は読めないのでしょうか。


そういえば、速読をする場合には、このようなシステム1で読まないといけないと思いますが、それゆえに(まともな)哲学書は速読できません。(もちろん知ってあることが書いてある本ならできるけど..) もっとも、この件は速読教師は否定するかもしれませんが..(もっとも豊かな読書経験をしている速読教師は滅多にいないのでほとんどの人の言明は無視できますし、まともな速読教師は同意してくれるでしょう、おそらく)

実は、この件を考えながら、なんとか子供の相手をしながら重い本を読む方法を考えようと思っていたのですが、よくよく考えると無理そうです。やっぱり認知資源をそこに使ってしまっているのではないかと思います。そう考えると、子守用に小説をいくつか用意しておくというのが正解な気がしてきました。もしくはあまり頭を使わない作業に近いような仕事をするか...
posted by やまざきしんじ at 09:35| Comment(0) | 日記
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