2012年08月22日

3つの考え方と2つの見方


昨日、知人と話していて気づいたことがあります。

これまで哲学の歴史においては、物事に対しての3つの見方があります。まず、伝統的な2つの立場として、

1.物には、その本質的なものが備わっているとする立場
いわゆるプラトン的立場ですね。例えば、椅子には、椅子の本質的なものが備わっている(椅子のイデアがある)とする立場です。西洋的な考えの伝統的かつ主流な考え方と言っても良い考え方です。キリスト教もこのような考えによっているのではないでしょうか?
例えば、正義というものが存在する、という考え方です(物理的にという意味ではないです)


一方で、その逆に、何も本質的なものがないという立場があります。

2.物には、本質的なものはないし、それどころか、そもそも物などというのは人には分からないとする立場
いわゆる懐疑的立場ですね。批判的思考と微妙に近いニュアンスを感じますが、そもそも、全てを疑うというところが違います。そもそも、現在のこの状況自体も運(縁起)とする東洋的思想もこの一種と言えるかもしれません。ともかく、物事には、本質的なものはないし、それどころかそんなものは分からないし、何も言えない、とする立場です。


この2つの考え方に対して20世紀初頭あたりから3つめの考え方が出てきました。

3.物には、本質的なものがあるかないかは分からないけど、ともかく人と人との関係において物というものがどういう意味を持つかを考えようという立場
フッサール、ソシュールあたりがこのような考えの産みの親でしょうか。プラグマティズムという考え方もこれですね。このあたりの思想を援用して、「結局、人それぞれだよね」という論理を使って2のような懐疑主義に突っ走るのがニーチェや多くの現代思想家ですが。この3の立場では、そもそも人と人との関係性の間に、物には意味があるとする立場です。


私はもともと3の考え方が強いのですが(学生時代にソシュールの記号論やヴィトゲンシュタインの言語ゲームの影響を受けてる)、そのために製品というのは「結局、売れるのがいい製品だよね?」と考えています。

一方で、世の中には1のような考え方をしていて、「これはいい商品」(すごく性能がよかったり、美しかったりする)なのに売れないなー、という考え方をする人がいます。


よく、「いい商品を作ったのに売れないんだよなー」ということを言う人がいると聞くのですが(そしてたまにいるのですが)、この世の中の見方が1なのか3なのかによって商品の見方がそもそも違うということですね。
posted by やまざきしんじ at 15:14| Comment(0) | メモ
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