文系と理系というのは、一般的には数学が苦手かどうか程度と考えられていますが、わたしは「客観的事実」をどこまで重視するかだと思っています。
例えばある実験があったときに、その実験結果を重視するのが理系、実験の結果は「主観」にすぎないし結果の事実を重視しないのが文系だと思っています。(ここでいう文系は悪い文系かもしれませんが)
この文系的な思考だと、事実かどうかは客観ではないので、重視すべきは「誰が言ったか」になりがちです。「誰が言ったか」でなく、「何を言ったか」を重視するのが理系でしょうか。
ちなみに、これは文系理系関係ありませんが、実は文系的な思想の人にはしばしば「絶対」思考というのがあると思ってます。確率概念がないというべきでしょうか。いや、文系、理系じゃないのかな、これ。
まー、それはともかく最近「ティール組織」という本を最近読みました。これは、ケン・ウィルバー(←わたしの圧倒的に苦手なスピリチュアル系の人)のインテグラル理論を元に、組織を語るというヤツです。ピーター・センゲみたいな。(ちなみにわたしはピーター・センゲも圧倒的に苦手、本を投げそうになる)
このティール組織という本は、人間の意識の発達段階(進化という言葉も使ってたかも)によって、組織形態も変わり、これからの組織はティール組織だ、みたいなことを言っている本です。ただ、この組織の発達段階のフレームワークを語るには、その筋道が貧弱。「ケン・ウィルバーの理論を応用してみました」程度の理由で、あとはその理論に合った事例がいくつか述べられているだけ。いくつかっていっても、実際に主なものは2つくらい。
おいおい、たった2つの事例で(歴史的なものを含んだ)組織の発達段階を全部語っちゃうのかよ、酷いな、というのが私の最初の感想でした。(読書会に参加するために読んだもので、そうでなければギブアップしてたかも)
ただ、途中で少し考え直して、その本からポジティブな所だけを取り出して読もうとしてみました。つまり、この本(に限らないけど)は、そのフレームワーク(理論)を知るということが大事で、そのフレームワークが事実であるかどうかとかは大事じゃないということなんですよね。「あー、こういう見方もあるよね」ということがあれば、それでいい、と。
わたしは「こういう見方」というのがあった時には、そのふさわしさとか、その見方による何かを予測できることとかが大事なんだと思ってましたが、そうでない人も多いってことですよね。つまりそう考えると、最初の理系・文系の違いとして、「理論があった時に、理論の予測力を重視するか」が理系と文系の分かれ目にあるのかもしれません。
理論には、未知の問題を予測できるか?それとも、理論はある物事を説明できるか?
前者が理系的、後者が文系的と捉えることもできるんじゃないか、とふと思いました。
長いな...単なる自分のメモだからいいか。
2018年05月09日
文系と理系
posted by やまざきしんじ at 22:52| Comment(0)
| 日記
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