2018年05月26日

人生初の哲学カフェに参加


人生初の「哲学カフェ」というのに参加してきました。

テーマは「読書」ということで、ショーペンハウエルの「読書について」の引用があり、副読本風にほのめかされておりました。

ちなみにこれまでショーペンハウエルの「読書について」をテーマにした読書会は2回か3回参加したことがあると思いますが、ガチ読書好き(というか哲学好き?)にはこの本は意外と評判が悪い印象があります。

いや、思いつき書いてるだけなので^^;;議論というレベルに達していないし、思考も深いわけではないという話ですが^^;;


ところで昨日の哲学カフェでも「読書について」の話もわずかに出ていました。今はショーペンハウエルの時代よりも本が圧倒的に多いのでさらに状況が違うという話題が少し出ていましたが、実はショーペンハウエルの時代も現代と同様に圧倒的に出版数が増えてきて読みきれないほどの駄作があったという点では同じだったんだと思いますが、そういった歴史的な話はありませんでした^^;;


ちなみに参加者は8人か9人で、平均年齢は40中くらいでしょうか。うちの読書会と同じくらいで、やりやすい感じです^^;;


会は初参加者が二人(うち一人はわたし)だったので、最初に哲学カフェの概要の話があって、そこから自己紹介とかもなしで本題に入りました。

実はこれは新鮮。これまで仕事やら遊びやらで様々なグループワークとかをやってきましたが、名前を名乗らないで始めるというのは初めて。ちなみに帰りに参加者の方と話すと、そういうのも哲学カフェではあるとのこと。へー。


ちなみに内容は読書のアレコレについてですが、話は基本的にどんどんと発散していきます。特に科学論あたりについては、社会学系の科学哲学を好きな方と、理系の方で噛み合わないというのがありました。よくある展開ですね^^;;あまり科学論に興味がなさそうな方もいたのですが、全く噛み合わなってないのを横目で眺めてました^^;;

科学論については難しいですよね。たぶん、科学サイドの人が相対論に対する基本的な対応を覚えておけばいいんだと思いますが、それをしないと「なんでもアリ」だか「なんにもナシ」だかにされがちな印象があります:-<

それ以外には、「どこまでが読書か?」というヤツ。いわゆる「マンガは読書に含まれますか?」

哲学カフェは別に議論を深めるということを目的としていないので(いや、してるかもしれないけど、実際には多人数で行なうし、バックグランドも様々な人なので、そこまで行ききらないと思ってます)、いろんな意見を聞いて楽しむ感じでしょうか。

ちなみに読書について、つまみ食い的なもの(インターネットの記事を見るとか)vs読書的なもの、という対立(に見える)は面白かったです。つまみ食い的なものは、深まらないみたいな意見がありましたが、このあたりはわたしと意見が反対で面白かったです。

また、同様にいろいろなものを読むかどうか議論。自分の興味のないものも読む、という方がいてなかなかその意見が興味深かったです。たしかに時間がある時はそういうことをするのもありだと思いますが(わたしのコンピュータの師匠的な人は、高校・大学時代に図書館でタイトルもなんも気にせず分厚い本を借りてきて読むなんてことをしてた)、それって大人になってからは厳しいですもんね。


ただ、興味のないものを読むことで「ふと気づく」とか「ひらめく」というのがある、と。このあたりは、もっと議論をすると楽しい展開がありそうですが、議論をするためには議論に足るベースを互いに調べてきてからじゃないかな、とわたしは思っていて。このあたりが「自分の頭で考える派」対「自分の頭で考えない派」の対立なのかもしれません(わたしは、「自分の頭で考えない派」)

会は2時間予定だったのを若干オーバーして終わりましたが、なかなかおもしろかったです。

といっても、様々なバックグランドの人ですし、微妙なモヤモヤ感(どこまで話を突っ込んでいいのか分からない)というのがありました。もしかすると人数が多すぎたので、やはりもうちょっと絞ったほうがよかったのかな。読書会では4,5人がベストだと思ってますが、哲学カフェもやはりそういうのがあるのかも(ちなみにTRPGもプレイヤーは5人くらいがベストだと思うので、会話を主体にした場合の満足しやすい人数というのがあるのかも)

posted by やまざきしんじ at 16:27| Comment(0) | 日記

2018年05月09日

文系と理系

文系と理系というのは、一般的には数学が苦手かどうか程度と考えられていますが、わたしは「客観的事実」をどこまで重視するかだと思っています。

例えばある実験があったときに、その実験結果を重視するのが理系、実験の結果は「主観」にすぎないし結果の事実を重視しないのが文系だと思っています。(ここでいう文系は悪い文系かもしれませんが)

この文系的な思考だと、事実かどうかは客観ではないので、重視すべきは「誰が言ったか」になりがちです。「誰が言ったか」でなく、「何を言ったか」を重視するのが理系でしょうか。

ちなみに、これは文系理系関係ありませんが、実は文系的な思想の人にはしばしば「絶対」思考というのがあると思ってます。確率概念がないというべきでしょうか。いや、文系、理系じゃないのかな、これ。

まー、それはともかく最近「ティール組織」という本を最近読みました。これは、ケン・ウィルバー(←わたしの圧倒的に苦手なスピリチュアル系の人)のインテグラル理論を元に、組織を語るというヤツです。ピーター・センゲみたいな。(ちなみにわたしはピーター・センゲも圧倒的に苦手、本を投げそうになる)

このティール組織という本は、人間の意識の発達段階(進化という言葉も使ってたかも)によって、組織形態も変わり、これからの組織はティール組織だ、みたいなことを言っている本です。ただ、この組織の発達段階のフレームワークを語るには、その筋道が貧弱。「ケン・ウィルバーの理論を応用してみました」程度の理由で、あとはその理論に合った事例がいくつか述べられているだけ。いくつかっていっても、実際に主なものは2つくらい。

おいおい、たった2つの事例で(歴史的なものを含んだ)組織の発達段階を全部語っちゃうのかよ、酷いな、というのが私の最初の感想でした。(読書会に参加するために読んだもので、そうでなければギブアップしてたかも)

ただ、途中で少し考え直して、その本からポジティブな所だけを取り出して読もうとしてみました。つまり、この本(に限らないけど)は、そのフレームワーク(理論)を知るということが大事で、そのフレームワークが事実であるかどうかとかは大事じゃないということなんですよね。「あー、こういう見方もあるよね」ということがあれば、それでいい、と。

わたしは「こういう見方」というのがあった時には、そのふさわしさとか、その見方による何かを予測できることとかが大事なんだと思ってましたが、そうでない人も多いってことですよね。つまりそう考えると、最初の理系・文系の違いとして、「理論があった時に、理論の予測力を重視するか」が理系と文系の分かれ目にあるのかもしれません。

理論には、未知の問題を予測できるか?それとも、理論はある物事を説明できるか?

前者が理系的、後者が文系的と捉えることもできるんじゃないか、とふと思いました。

長いな...単なる自分のメモだからいいか。
posted by やまざきしんじ at 22:52| Comment(0) | 日記